わたしの死生観『生きることと死ぬこと~シュタイナーの死生観に学ぶ』2024.11.19.
☆オイリュトミー・ハレルヤ
☆魂の暦
☆バイオグラフィーワークとムーンノードについて
☆参加者による『わたしの死生観』
イ:あの世とこの世は、ヴェールのような薄いもので隔てられているだけで、けっしてコンクリートのような硬い壁があるのではないと思うので、それをつなげたいと願ってきた。
肉体があるかないか、その違いだけで、向こうからも呼びかけていると思う。
生まれる前の赤ちゃんと死者たちのいる世界は、私たちが実生活を送っている自然界の中にあるということを、思考と共に捉えられる人が増えたように感じる。
宇宙的な循環だと思う。
私たちが力を発揮して、この世の営みを霊界に捧げることで、私たち自身も健やかに若々しくいられると思う。
ロ:日本人は特別なことをしなくても、「いただきます」とか、「ありがとう」というだけで、祈りになっていると思う。
ハ:子どものころ、お葬式に行った情景が今でも心に残っている。
いつごろ、誰のお葬式だったかは覚えていない。
私が子どもだったから、日常とは違う、生と死が一緒にあるその空間の中に、命そのものとして存在していたからかもしれない。
ニ:死とは、来たところに還るだけなのだと思う。
だから、来たばかりの赤ちゃんと、還るときが近いおばあちゃんは、何も言わなくても通じあえるのかもしれない。
ホ:ここで、こういう話をすると、いつも思い出す感覚がある。
日常生活に追われて狭くなっていた心が、大事なことを思い出して、我に返るような気がする。
ヘ:人はみんないつかは死ぬものなんだと思うと、地上で出会っているってなんて素晴らしいことなんだろうと思う。
みんな愛おしくなる。
人生は部活動のようなもの。
楽しいことも、辛いこともあるけれど、いつかは卒業して終わってしまうのだから。
ト:みんなに「ありがとう!」って言って死ねたらいいなと思う。
でも、いつ何があるかわからない。
それも自然に受け止めたい。
生と死がずっと繋がっているなら、そして今しあわせを感じて暮らしているなら、どんな死に方をしてもしあわせだと思う。
子どもたちにも、どんな死に方をしてもお母さんはしあわせだったと思ってほしい!と伝えてある。
いろいろなことがあるけれど、振り子のようにゆらゆら揺れながら、地に足をつけて生きていきたい。
私たちは、魂の世界と、今の現実世界とを行き来する存在なのだから。
チ:お母さんはしあわせだったって言ってもらえたら、子どもは嬉しいと思う。
こういう話ができる、この場が大好き。
リ:お祝い事はおめでたいもの、お悔やみごとは悲しいものと分けられる。
けれども「おめでとう」と言われることの先には、責任の重さやプレッシャーが待っていることが多く、楽とは限らない。
反対にお別れは悲しく辛いものではあるけれど、その時だけにしか射さない特別な光があると思う。
それを見逃さずに受け取ることが、旅立つ人にとっても、見送る人にとっても大切だと思う。
旅立った人が私に何を残し、私は何を引き継いでいけるのか。
シュタイナーは、私たちが「死」と呼んでいる扉の向こうには「死後の生」があり、その道のりを示してくれた。
そうであるならこの宇宙は、地上に生きる私たちと、あの世を生きる彼らとの共同作業によって成り立っているのだと思った。